三木金物の歴史

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伝統に裏打ちされた優秀な技術と職人魂

播州三木は鍛冶のまち…と昔からよく知られ、数多い伝説と歴史に彩られた背景の中で、
我が国でもっとも古い鍛冶のまちとして栄えてきました。

伝説に彩られて

むかし、神功皇后が朝鮮半島に遠征、百済(くだら)の国を助け、新羅(しらぎ)と戦ったという話があります。これにまつわる話が地方にも多く、三木市も例外ではありません。神功皇后が遠征の途中、三木の君が峰あたりで-服された時、土地の人たちが壺に入れたお酒をさし上げました。お酒を召し上った皇后が大変おほめになったので酒壺(みき)と呼ばれるようになり、これが三木の地名になったというのです。

また、戦のあと、多くの韓人を連れ帰られたのが、三木に住み着き鍛冶を行なったのが、金物の町としてのはじまりだという言い伝えです。

韓鍛冶の技術が入る

また播磨地方は大昔に、大和民族と出雲民族の交流の接点であったわけですから、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)は播磨に住まれて大和鍛治の祖神となられ、製鉄の祖金山彦命(かなやまひこのみこと)も播磨の国に天降られたあと、出雲に移られたという伝承もあります。播磨地方は古くから製鉄や鍛冶が盛んであったから、このような話が言い伝わったと思われます。

歴史によりますと、百済の聖明王の王子恵とともに、帰化された人たちによって大和鍛冶に韓鍛冶のすばらしい技術が加わり、鍛冶のまち三木の基礎ができ上ったのです。

三木に残した
秀吉の功罪

佐賀県立名護屋城博物館所蔵

鍛冶とともに大工職人の技術もすぐれ、日原大工と呼ばれるこの地方の大工さんは奈良朝、平安朝の時代から国宝級の建造物を手がけていますが、一方三木地方にも、立派な寺院が多く建立されました。ところが残念なことに、秀吉が三木城攻めでこれらの寺も古い街並みも、文化の足跡を焼き払ってしまったのです。惜しむに余りあります。

でも秀吉は、それ以後の三木のために大きな功績を残しそれが新しい三木づくりの原点となり、金物のまち三木は、この時から本格的に培われてきたとも言えるのです。

別所長治の三木城を攻め落した秀吉は、当初、この地に根をおろす考えで、制札を次々に掲げましたので人々は再び町に帰り復興が目ざましく捗どりました。

焼けてしまった寺や家屋の復旧のため各地から大工職人が集まり、彼等に必要な大工道具をつくる鍛冶職人が増え、これが現在の発展につながる足がかりとなったのです。

また、戦のあと、多くの韓人を連れ帰られたのが、三木に住み着き鍛冶を行なったのが、金物の町としてのはじまりだという言い伝えです。

鍛冶繁昌と問屋の誕生

町の復興が一段落すると大工職人は出稼ぎをすることになったのです が、外に出て評判になったのが持って行った大工道具です。鼻高々で三木金物を自慢し、つぎに行く時は品物を持って行って売りさばき、また一方では各地のすぐれた大工道具に関した情報を入手し、製造技術の向上にも役立てました。

江戸時代後半の19世紀に入ると鋸、鉋、鑿などのほかに庖丁、剃刃、鋏などの刃物や曲尺、やすりなどと生産品目も多くなりました。

こうして鍛冶が発展して来ますと出稼ぎの大工だけに頼っていては販売が追いつきません。宝暦年間(1751~1764)には、材料の仕入れと製品の販売に当たる仲買人が生まれたのです。この頃は原料の一部を大阪から仕入れる仲間もあって、代価を製品と相殺するか、材料を仲買人が鍛冶屋に与えて手間賃が支払われる形式がとられました。

仲買人は、やがて大きくなって仲買問屋へと発展しますが、寛政4年(1792)の仲間定法控によりますと「作屋」など5軒が仲買仲間を結成、大工道具、家庭刃物、野道具などを取扱っています。 これに対して鍛冶職人の方でも鋸や剃刃などの職人が、稲荷講や文殊講の名で仲間を組織、同業の保護につとめています。

三木金物は、はじめ大阪の商人によって発達、大阪を中心とした地域を市場にして来ましたが、享和3年(1803)に江戸の炭屋七右衛門(現在も金物商社)から引合いがあり、翌4年から取引きが始まっています。こうして江戸との直接取引が始まると、仲買人は急速に資本を蓄わえ、これまで優位にあった鍛冶仲間を支配系列下に組入れて行くことになりました。これがその後の生産流通の基本形態となったわけです。

明治維新から現在まで

日本の夜明け、明治維新によって江戸時代の鍛治仲間の封建的諸制度は次第に崩れはじめ、近代資本主義社会の産業形態に足を踏み入れたのです。

三木金物に大きな変革をもたらしたのは明治13年頃から輸入されだした洋鉄、洋鋼が使用されはじめ製造工程の合理化で量産が可能となったからで、このため東京、大阪の金物仲買問屋だけではさばききれず直接各地方へ出張販売することになりましたが、交通機関の発達と輸送力の増大が大きくプラスし、今日の三木金物の全国的な販売網をつくる基礎になりました。

大正末期から昭和初期にかけての経済恐慌も、それを克服するための不断の努力が重ねられ、ベルトハンマーやエアーハンマー、グラインダーなど使用の近代化工場も増えはじめ、販売面でも満州事変以後は、朝鮮、満州、中国大陸から東南アジア市場への進出が行われました。あの太平洋戦争の終戦とともに荒廃した国土の復興がはじまり、大工道具の需要が急増しました。

全国の小売店が三木に殺到するという異常さで、この勢いに乗り、有力メーカーは大規模工場に発展、地元の問屋を組織して代理店販売の形式を採用すると共に、直接大阪、名古屋、東京の集散地問屋に進出しはじめました。

一方戦前の3倍以上にも増えた地元問屋も、それぞれの販売組織を確立して新しい経済秩序をつくり、全三木金物卸商協同組合がつくられました。

戦後の新しい特徴は、電動工具の発達と新建築様式に対応する新建材用具、さらに基幹産業面ではスパナーなど工具、耕運機、バインダー刃等の農具、山林伐採用ジグソーなどにも進出、また生活様式の変化による家庭大工、園芸用具の新開発です。ホームセンターや大型量販店の誕生によって驚異的な伸びをみせています。